この作品上に〈われ〉のない作品をそれぞれどのように捉えているか、〈われ〉に対する個々の在り方とともに見えてくるものがある。作品上の〈われ〉について、葛原は作品にあってもなくても自然体で〈われ〉を一つの風景と捉えることに近い淡白さがある。一方、方代や克巳は意識があるが、強い意識のなか〈われ〉に入り込みそれを記述するのを忘れた方代と、意識があるからこそ作品に記述することを拒む克巳がいる。克巳は作品上の〈われ〉から自由になりたかったのだろうと思う。そのため、私を中心に短歌を作ることを強制しなかった。
もう20年以上前になるが、当時の歌人の世代を4区分してその特徴を探った。言葉は時代の流行に敏感でファッションと同様、そのなかで磨かれ育ちつつ時代を反映する。何を表現しようとするか短歌の構造を調べた。作品上の〈われ〉と対象とのかかわり方から四つのパターンを捉えることができた([BLEND]第1号(2002年8月))。作品上の〈われ〉は作者とともにあったものが距離をもち、作品上から消えることで対象が残される。それを読者が主体的に読んでゆく状況が生まれる。この変化は、作品上の〈われ〉の役割が何かを同時に伝えてくる。従来、読者は読みながら知らず知らず作品上の〈われ〉を通して作者の感情、感動、思いなどを共有する。作品上の〈われ〉とは作者からの生の声を読者が直接受け取れる「窓」であり、互いを結ぶ役割があった。ここでは作者の言葉を読者はみずからの経験とともに喜び悲しみを融合させてきた。それが突然「窓」が閉鎖されて読者は困惑した。作者から人肌の温もりのない言葉だけを投げつけられて取り残されたような感覚に陥った。
ここで興味深いのは、その窓がなくなり従来の作者の生の感情や思いなど受け取れず、作品全体から湧き出てくる抒情が感じ取りにくくなるという変化が生じると、読者は作品が淡白に、乾いた言葉として感じられるようになった([BLEND]第2号(2002年12月))。茂吉が水穂の作品に憤ったのはその「窓」がなく従来の抒情が感じられないためであり、「抒情詩本来の要約であるべき強い衝迫」がないと言い切っていることからもわかる。また克巳が作品上から〈われ〉を遠ざけたことも抒情が淡白になると感じる要因がそこにあると感覚的に知っていたのだと思う。この作品上の〈われ〉は2音であっても31音の中心軸を成し、他の言葉に影響を与える大きな役割をもっていた。
2 音数という空間――視覚化された言葉
定型31音から〈われ〉という二音を意識的に私が取り払ったのは自分の言葉の濃さに疲れたからで、新たな短歌を追求したり、定型に挑戦しようというものではない。ただそれを除いても他の言葉の結びつきはそのままで成立するものもあるので二音を補わなくてもよかった。形式のもつ空間に素直に従えば空白そのままが自然だった。定型の音数は空間を形作ってゆくものだから、空間として短歌を捉えることができると思う。古来より字足らず、字余りという言葉があるように音数ではない見方で短歌を見做すという事実がある。例外とするのはこれを認めると何をもって短歌なのか説明ができないからだが、一字あけなど空白は単純にその音数だけではなく見えない言葉、例えば香や風、人の呼吸、思い出など総体として事柄が読み出されることを考えると音数は目安にしかならない。
いつからか、作品上に〈われ〉のない作品が多くなると、そこに2音を補足して31音に収め、私の作品を破調と呼び、自由律ともいう。では韻文の言葉、その機能とは何か、それを考える上で面白いものがある。1900年代初めにフランスで俳句が「ハイカイ」として紹介された。その後フランス・ハイカイが作られるようになり、その創始者ポール=ルイ・クーシューの著書『アジアの賢人と詩人』(1916年)(*)には日本の俳句がフランス語でいくつも紹介され、例えば上島鬼貫の句「Elles
s'epanouissent,―alors/On les regarde,―alors les fleurs/Se fletrissent,―alors…」(「咲くからに見るからに花のちるからに」)がある。「からに」が「alors」に変換されただけではなく「,」「―」「…」を伴う。クーシューは友人の日本学者で俳諧史や日本の韻文の特色を分析したクロード=E・メートルの影響があると記すが、彼らは韻文の言葉の意味、その働きを知るからこそ読点やハイフンなどで視覚化した。「からに」の訳語だけであれば理詰めとなり本来の俳句の良さが伝わらないため、そこに言葉を一旦止める「、」と止めたことで湧き出るもの、響きを「―」「…」で描くという判断をしている。韻文の言葉とは見えない言葉の存在をどう機能させるかにあり、そこには水琴窟のような空洞がある。
抒情はそうしたものを辿るように湧き上がってゆくから、世代ごとに変化してゆく構造にはそれに沿ったものが作られてゆく。私たちの世代では〈われ〉という強固な中心軸がなくなると言葉そのものに重きがおかれたため、より韻文の言葉の役割を知り使えないと作品の質に大きな差が生じ、さらに作者の本質という、在り方を支える軸が作品上の〈われ〉に代わり支えることになった([BLEND]第8号(2004年12月))。こうした現象は短歌を作ることをより難しくし、容易く従来のように抒情は生まれない。短歌を捉える「空間」という概念は韻律をもゆるがすように見えるが、形式に音数をはめておのずと派生する韻律は多くの人が短歌的な表現を獲得しやすくするだけで、韻律とはもっとたおやかで大らかに人々に添う。本来言葉は個々の人間にある音、リズム、呼吸などに培われているから個々の音、響きをもつ。形式にはめることでそれらは削がれていたので、ここにきてみずからの言葉、そして韻文の言葉の力に向き合える。短歌の世界は形式など守られていることが多いから言葉に向かう透明さと誠実な姿勢が必要で、世代ごとの短歌の構造の変化のなかで、空白も抒情も韻律も個々の主体的な力が問われているのだと思う。