壁の「だるま」（加藤克巳の師・高橋俊人への手紙をめぐって）

　加藤克巳は満93歳を迎えた（註：2008年）。個性の会が閉じられてからずっと、克巳会が誕生日の6月30日に開かれている。今年の会は、昔の思い出を語るほのぼのとした会になった。30年ほど前に亡くなった祖父の遺品が入っているダンボール箱をごそごそ探し、少年克巳の手紙を見つけ出し、そのなかのひとつをもっていった。

（略）浦和はとても淋しいです。先生が行かれた後の浦和は全くつまりませんね。今日十一時半頃、元先生宅へ行って見ました。懐しい部屋はがらんとしてゐて、たゞ六畳の右の壁に例の「だるま」が先生方の行かれたのをうらやましさうに、そして又ついて行きたさうな眼付きでひとりにらんでゐました。
静かな部屋、何一つ音もしない、部屋、僕は三十分程ぢつとゐました。たった昨日迄は先生やお子様方が賑はしく居られた部屋だと思ふとたまらなく懐しく感じられて、今ちょっとの間先生方のお外出を留守居してゐるやうで、今にも帰って来られる様な気がしてなりませんでした。
門に貼ってあった転居知らせの紙が半ばはがれて風にはたはたと鳴る音が聞えて来て、とうとう仕方なく帰りました。（原文の一部は正字だが、略字に統一）

　定型という空間を知った克巳が全身でうたった。産毛立つ肌に耳を澄ましてなにかを探ろうとする。そして触れたその一点から、自己の世界をとつとつと描き出す。かざされたハンマーは光となり、春の昼の静かな輝きになる。
　鶯の声は少年のなつかしさを引き連れてきて、春の雨のやさしい線は遠くの赤い洋館を包む。そこに現実の風景に過去の時や色褪せない心の色彩〈赤〉を塗り込んでいる。
　飴屋の笛、拍子木の音も犬の遠吠えも克巳の内にとけて、春のあわい巷に重ねられ、夜の寂しさを縁取る。霜を踏む靴音やヘッドライトは汽笛や雨脚を際立たせ、小雀の動きには鳴き声も聞えてくる。
　遠く近くの風景に佇み、自己の時の刻みに変えてゆく。私という存在を強く意識せずに克巳は、ものとともに在る。このとらわれない感覚のまま現在にいたる。のちに「短歌的な抒情」と対極の方向へと進むが、当時は定型のなかに感情を掬い取ってゆく方法を学んでいる。克巳は、日曜日ごとに祖父の家に行き、編集、発行の手伝いをしながら、短歌にかかわるすべてを教わったという。
　祖父はとても自由人だったからか、生徒には人気があったらしいが、校長には睨まれていたという。こんな話がある。
　その校長は、ことのほか頭が禿げていることをひとり気にしていた。ある放課後、祖父が校庭を散歩していたとき、校長室の真上の教室の窓近くに「ハゲ此下にあり取扱注意」と白墨で大きく書かれてあった。その〈秀逸な落書〉をしばらく見上げて立っていたら、他の教師もぞろぞろと出てきて、みな感心しながら笑って振り仰いでいた。そこへ校長まで出てきた。その後最初の発見者として叱られたという。そんなこともあってか、昭和七年の菜の花が咲く頃に、三重の県立桑名中学校へ異動させられてしまった。
　克巳は、その別れをうたっている。